やはり踊ってしまった

 言い訳的にどうして古事記を踊ることになったのかを、プログに書こうとしていたのに、あっという間に当日が来てしまい。踊ってしまった。結果を言えば大成功の公演であった。ほんとかな。まあでも本当にいい時間だった。いいものを見せてもらいました。と数人のお客さんから言われたことは、大変珍しいことだと思う。

 まず松田弘之氏の能管が素晴らしかった。一番初めに松田さんがソロで一曲を吹いたのだが、のっけから会場の空気がビシッと絞まり、おおこのテンションで踊るのかと身震いが走った。松田さんの能管の演奏は、そのレベルの高さ、抑揚、繊細さ、タッチの柔らかさ、切り込むような高音の鋭さ、そのどれを取っても素晴らしいものだった。この一曲を聞いただけでその夜来場していただいたお客さんは満足する内容をもっていた。普段能の笛音は能の舞台の奥から響いてくるのだが、こんな小さな空間でその音を聞くことはない。あの強烈な音を目の前で吹かれるだけで、その音は体を、頭をつき抜けてゆく。さすが松田さんの演奏だった。

 次に蔡玲雄くんが、中東の古楽器で演奏をしてくれた。蔡君の演奏もとてもよかった。松田さんの強烈な音とは対照的に優しい音と繊細なリズムの演奏だった。その蔡君が梁塵秘抄ー平安時代末期に編まれた歌謡集。今謡歌謡の集大成。編者は、後白河法王ーを歌った。これに合わせ松田さんが笛をあわせ吹いた。これらこのために買ったビデオカメラで撮影記録したのだが、著作権の問題がありブログに乗せられないのが残念だ。彼らはプロの演奏家だから、これらの問題には敏感だ。

 次に僕、加島がどうして古事記を踊ることになったのかの話を始めた。今年の能登の龍昌寺での勉強会で柳井さんが古事記の講義をしたなかで、柳井さんの古事記の翻訳の朗読が素晴らしかったことをまず話し、その録音を皆さんに聞いてもらった。これを聞いたときに古事記の感覚が行きなり自分に入ってきたこと。考えてみれば、古事記はもともと口承で伝えられてきた音の世界の物語だから、文字で読むより、音で聴いたほうが何かしっくりとくるのは当たり前かもしれない。驚いたことに古事記が成立したのが七世紀だというのだ。仏教の伝来も七世紀である。以外と新しというか、最近のできごとなのだ。まったく日本という国は呑気な国だと思う。七世紀まで口語と文字の連携が生まれなかったのだから。縄文時代三万年の二万八千七百間は文字も無く表音の世界、口伝の世界で生きて来たことになうじゃないか。つまり、言葉と文字が一致しない世界、自意識がコトバ化、概念化されえない世界をこんなに長く生き来た民族も珍しいい気がする。それだけに漢字の輸入とそれに口伝的な物がたり世界を一致、統合するのには大変に無理があり、困難な作業さったと推測される。その頃のインテリは大変だったろうなあ。

 15年前のことだ。以前勤めていたギャラリーと辞め、仕事がなくなってしまい。奥さんも子供を連れて実家に帰ってしまい。何もやることが無くて困った時期があった。小林から貰ったオンボロの軽自動車に乗り、一人で那智の瀧を観に行こうと思い立ち出掛けたことがあった。僕には変なくせがあって人生の転機に南へ突き出した半島や、島に本能的に呼ばれる感覚があるのだ。この時もそのような時期だった。この時のことをちゃんと書くと大変だから、割愛するが、友達の家などに厄介になりながら、五つ日ほどかけて那智の瀧に到着した。那智の瀧を観たいと思って頑張ってオンボロ軽を運転して言ったので、いざ雨の中の浮かぶ那智の瀧を見てしまったら、ゆくあてもなくなってしまった。その夜は紀伊半島の山中を一人奈良に向かって車をはしらせた。疲れたので山の中に駐車してその晩はそこで眠った。翌朝ぶらりと紀伊半島の山中からいきなり奈良盆地にでて車でそのまま法隆寺に向かった。その時の法隆寺の印象が面白かった。紀伊半島の山中から出てきて法隆寺を見る感覚は、何でこんな田舎にいきなりハイテクな建物、今でいえば100階建のビルがあらわれたのかと言ったものだった。これは外国の文化なのだとハッキリと見えた。七世紀の日本人にとって法隆寺の五重の塔をを見る感覚は脅威に満ちていたにちがいない。それは全く違った外国の最新鋭の技術と文化だったのだろう。それをもたらしたのが仏教であり、中国文化であり、漢字文化なのだろう。

 自分の物語が、歌であったものが、詠いつたえられてきたものが、文字に置き換えられ、視覚に残り、記録され、再読し、もう一度読むことで、世界は再現され、それを世界として再認識した人びとの驚きと、喜びはいかがなものであったろう。ここで生まれた自分という感覚、自意識、世界を文字と音で再認識するプロセスはいかなる躍動感が胸を走ったのだろう。ここから国という概念や、権威、権力、正統なる者、あらゆる秩序概念が生まれたのだろうし、それをめぐっての争いが生まれたのも想像できるではないか。それが七世紀だったのだ。

 ダンスの話だったな。なかなか前に進まないな。

 それからまだ話はつづいた。柳井さんの古事記の朗読に感銘したのに、それが何に感心したのか、それはこの時点では分からなかった。正法眼蔵の勉強会の最終日は決まって僕が前座を務めるとこになっている。この勉強会の発案者であるぼくが、罰を食らう日だ。お前がこんなことを言い出したのだから、何か喋れというわけだ。ここ数年僕のテーマは仏教とは何かということだ。前回書いたように、いざ仏教を勉強しようとしても何から手を付ければよいか、あまりにも多岐にわたる知らないことがありすぎて、混乱するのだ。昨年は一神教的数学世界から見た科学の成立、と哲学史を比較しようとして難破した。このテーマはデカすぎた。その前の年はインド思想史から生まれた仏教史にトライし、これも挫折した。とにかく大変で難しいのでバーの親父がやることじゃないんだけれど、とにかく一時間話をしなくてはならない。

 今年は大乗起信論というこれまた難題に挑戦した。大乗起信論は4世紀、インドの馬鳴(めみょう)菩薩によって書かれたといわれている。ここを話すのが大変だな。いつもここまで書いて本題に入れない。井筒俊彦の東洋哲学覚書ー意識の形而上学ー大乗起信論という堅物な本があってこれに感動して、これに依存して今年は話をしたのだ。今思ってもちょっと異常な感じだな。五月の勉強会のために、最終日に一時間のために毎年一月から五月まで勉強をするのだが、そのプレッシャーの中で暮らす四ヶ月はちょっと普段の意識とは違ったものになる。ちょっと異常なまでに自分を追い込まないとあの場でjは話が出来ないのだ。 龍昌寺の勉強会で話をするのは一つの暗黙の了解がある。それは分かった知識は話しても意味を持たないといったものだ。大学の講義のようなものではだめなのだ。分からないということを分からないまま明晰に説明することを求められるのだ。そのことに参入するために、自分を明晰のまま追い込む知的作業を求められることになる。それがちょっと大変なことなので、それをもう一度やらなくてはならない状況に今立たされ、困っているのだ。