まあ気負ってもしかたがないか。

 まあ気負ってもしかたがないので、うつらうつら書き始めよう。いま思い出しているのは、アメリカの大学での出来事である。あまりに受験勉強が出来なくて何処の大学にも入ることが出来なかったので、無理矢理アメリカの大学、オレゴン州にあったリンフィールドカレッジに親父の友達のコネを使って潜り込んだ時代のことである。僕が23歳のころだから、かれこれ34年も前の話だ。もともと基礎学力がなかったから、当然英語力もあやふやでいきなりアメリカの大学の授業についてゆくのは大変だった。何を勉強したかったのかも明らかではなく、ただ日本で置かれている自分の行き詰った状況から脱出し、息をしたかった。前に進む希望を見つけたかったのだろう。自分の居場所がなかったのかな。まあとにかく英語を習得し少しかっこいい自分になりたかったわけだ。しかしそれは当然うまくいかなかった。明確な目標なしに英語に挑むことは、無謀な試みだったのだ。しかしそのころは何も分からなかったな。暗中模索というのはあの時代のことをいうのだろうな。とにかくヒリヒリする神経とそれを覆う皮膚だけが毛羽立ってしまい、内側では大量のエネルギーを蓄えたエンジンがプンプン廻っているのだが、どこにハンドルとブレーキがあるのかが見つからない状態で、アメリカまで無理矢理飛んでいった。この当時の自分を思いだすとほんとに哀れなもんだな。とにかく分からないまま、大学の授業が始まって、初歩の哲学の概論やら、アメリカ文学、東洋史など自分が興味ある科目をこなす毎日になった。

 あれはいつのことだか明確には覚えてはいない。たぶん留学して二年目の秋だったろうか。その頃にはだいぶ英語にも慣れ、生活英語には困らなくなっていたが、まだ大学レベルの英語と格闘していたころだ。リンフィールドは小さなリベラル系の大学で、生徒の数も800人程度のこじんまりした小さなプライベートカレッジで、さほど大きくないキャンパスに寮が立ち並びんでいた。アメリカの大学のいいところは図書館が併設されており、その図書館がほほ24時間開いていて、いつでも勉強できるし、居心地の良いソファーが点在していて、気持ちのいい居間としても使えることだった。ある晩、何か調べものをしようとその図書館を訪れたときのことだ。図書館の入口、普段は司書が案内をしてくれるカウンターの前に一台の書見台が置かれており、その上に分厚い百科事典が置かれていた。薄暗く照明を落とされたその部屋のなかで、その書見台だけにスポットライトが落とされていた。ふとその光の先を覗きこむと、そこにはインドの弥勒菩薩の姿の写真が目に入ってきた。話したいのはただそれだけの事実である。ただ面白いことにその写真が目に入ったその瞬間のことは今でも鮮明に思いだせるのだ。あの静かな空間、あのひんやりとした図書館の空気、あまりに鮮明に弥勒菩薩を照らすライト。それらが、時空を超えていきなり僕の視覚に飛び込んで来たのだ。そしてそのことは、特別な注意も払われることなく忘れてしまことになる。

 とにかく英語で哲学を勉強するつもりでいたのだ。とても一人では歯が立たないのでチューターという個人教授をつけてもらい、毎週の課題に挑戦する日々だった。まったくもう頭でっかちのただ生意気なガキほど困ったものはないよね。英語もろくすっぽできないのに、哲学なんてさらに分からないものを勉強しようってんだから、こまったもんだよ。英語も分からずウンウンと唸って、さらに分から無い哲学でウンウン唸っていた毎日だった。この哲学の初歩コースは面白かった。初期のギリシャ哲学からほぼ現代哲学までを半年間で勉強するのだが、各自時代の哲学者の著作の代表的な文章を4,5ページにまとめてあり、それを始めから読破してゆくコースだった。哲学者の文章は特殊だが、技術用語と同じで、慣れてくれば読解は可能だった。その面白さもあり夢中になって300ページくらいあった分厚い本をずいぶん丹念に読んだ。しかし、それに対する自分の意見を英語で書くことはまた別な難しさが生まれ、試験は散々な結果になった。とにかく自分では満足いく学期だった。ようやく試験も終わり、その前の晩自分の寮にあるホールで勉強してのだが、そこに忘れてきたその教科書をとりに行ったのだが、それは無くなっていた。どうやら誰かに盗まれてしまったのだ。学期が終わるごとに、その学期に使った教科書を学校の売店に持ってゆくとそれを買い取ってくれるのだ。だれかがそのわずかな金のために、半年苦労して読んだ本を持って行ったのだ。これにはちょっとがっくりとした。半年の苦労がわずか数ドルで売られてしまったのだ。頭でっかちの哲学お坊ちゃんの頭のなかにはその頃経済という概念、お金の苦労が存在していなかったのだ。

 まあそんな馬鹿なことを大真面目でやっていわけで、そりゃ経済的にも精神的にもつぶれることになる。感覚だけを頼りに英語を無理矢理飲み込すぎて、どこに自分の言語のアイデンティティーが有るか分からなくなってしまって、精神がどこかでフリーズしてしまい、どうすることも出来なくなっていた。まあいま考えれば自分の居場所を作りにアメリカまで出かけていったのだろうが、それを英語世界で作る具体的な方法を考えなかったのが間違いだな。自分の居場所が無いという感覚、焦りはその頃常にあった。自分が何者かも判然としないし、何をしたいのかと問うても明確な答えがでない。その時どきの飢えと渇きの衝動に動かされるまま、何かを掴もうと必死にもがくが、ただ虚しさのほうが茫漠と胸の内を占めてくる。それに抗う、それを埋めるものはどこにも見当たらない。別に楽しくなかった訳でない。その頃を思い起せば様々な楽しい思い出が蘇ってくる。しかしその虚しさの感覚はその後もしばらく、解けることのない問題として自分の人生を支配し続ける。

 どうにか自分の居場所を求めて出かけたアメリカの生活の2年半を挫折で終え、日本に強制生還された僕は親父にネクタイを締めろと言い渡され、翌週から翻訳の著作権事務所に放り込まれる。25歳からの丁稚奉公に出されることになる。そこで4年半手紙の開封とコピー、書籍の梱包、子供の本の営業をすることになるのだが、その自分の居場所を見つけることはできなかったのだ。

 この時期に一つの出会いがあった。それはアメリカから帰国した翌日友人宅を訪れると、そこに村田和樹さんがいた。これは偶然ではない。じつは母親に一度村田さんに会うよう強く勧められたのだ。始めてみる坊主頭だった。そこでの会話を明確に覚えている。和樹さんが両手をパンと叩き、禅ではこれはどっちの手の音だと問うのだ。と言った。その瞬間ムカッと来た僕は、どうして禅は答えのない問題をわざわざ出すんだ。と問いただした。その時、和樹さんがギッと僕の顔を睨みつけた。それが和樹さんとの初めての出会いだった。その目と出会いが、仏教とのファーストコンタクトだった。

 神田神保町でのサラリーマン丁稚奉公生活が始まった。志望動機欄に借金返済のためと書いたら却下され、試用期間3か月が6か月に延ばされた。あんまり暑いので半ズボンで会社に行ったら、隣の女の子が話をしてくれなくなった。来る日も来る日も、コピーマシンの前に立ち、窓から変わらないビルの風景を眺めていた。その頃ちょうどバブルが神保町の地上げから始まっていた。僕の給料は月13万円でいくら働いても上がる見込みはなかったにもかかわらず、神保町の古いビルは壊されるだけで、一坪一千万の値が付き、そこには雑草が悠々と生い茂る始末だった。なんだかへんな時代だっだな。週末になると新宿3丁目にでかけ当時はやっていたレゲバーに行き、一人壁に向かって踊っていた。それしか出来なかったなあ。なぜこんなことを書いているかと言えば、問題は自分の居場所がどこにもないという問題がどうしても解決しなかったのだ。

 外国の本の翻訳権の営業に求められる能力は、ベストセラーになるような本を出版社に持ち込み、その翻訳権を高い値段で売ることだった。その契約料の出来高が業績になるわけだから、瞬時にその本の可能性を判断し、売り込むことが肝心なのだ。そのためにいち早い情報の把握と流れを作る営業力を求められた。この仕事の内容と自分の居場所はどこにあるのかと言った個人的な悩みとは全く相入れることはなかった。そのためどう考えてもこの会社に自分の可能性や未来があるとは考えられなくなっていった。当時はこんなに明確に自分の状況を言葉で認識することはできなかった。だだ重苦しい違和感の中でもがいていただけだ。

 そうするうちに帰国後訪ねた友人が一家そろって能登にある龍昌寺に引っ越すことになった。僕もその引っ越しを手伝うことになり、トラックに自分の50ccのバイクを積み、旅行気分で龍昌寺を訪れたのが初めて能登だった。初めての能登はうら寂しく感じられ、何でこんなところに移住するのだろうといぶかり、僕は自分のバイクに乗り、ほうほうのていで逃げ出して帰った。それがどうして龍昌寺に、通うようになったのか記憶がない。東京のコピー生活に疲れていた僕は次第に龍昌寺に通うようになっていった。休みがあればそのたび、車で龍昌寺まで片道10時間を掛け、通いはじめたのだ。