龍昌寺の冬籠り

ほとほと会社での事務仕事が嫌になっていた。どうやっても上手くこなせないデスクワークを無理して終えて、週末に新宿三丁目のレゲバーに出掛け、独りで天井に向かって踊っている自分にも飽き飽きした。何もかも辞めたくなった。辞めたいものは、テレビ、煙草、会社、そして人間。どうやったら人間を辞められるか、考える日々だった。だいぶデスクワークストレスでおかしくなっていたのだろう。とにかく逃げ出そうと思った。この中で一番簡単にやめられそうなのが、会社だった。とにかくゼロになりたかった。自分の人生を歩むために、時間が必要だった。本をちゃんと読み勉強をしたかった。

会社を辞めるとまずは宣言をした。宣言をしたら、「ウォーリーを探せ」が売れ始めた。やんなっちまうなあ。たまたまこの本の担当だったのだ。広告会社から商品権を取りたいので一緒にイギリスへ行きたいと連絡があった。その件を上司に相談すると、お前やめると言っただろう、と言われた。結局「ウォーリーを探せ」はシリーズ累計1000万部を売り上げることになるのだが、後の祭りだった。

 会社を辞め、身辺整理をし、しばらく龍昌寺に居候を決め込んだ。読みたい本を段ボールで送り込み、勉強するつもりで移り住むことにした。

 その頃龍昌寺には小林仁と福田澄子も一緒に住み込んでいた。小林は都会に美術大学を中退したあと、インドに一年ほど滞在し、その後都会に居場所を見つけられず、僕の誘いで龍昌寺にきた。福田澄子はやはり中学校の美術教師をしていたが、それはどう見ても無理があって、美術教師に見切りをつけ一緒にくっついてきた。彼女もまたインド経験者だった。年末の味噌作り、餅つきのイベントが終わると、ひっそりとした冬休みに入る。冬の1月、2月、3月の三か月間、龍昌寺の面々は自宅にこもって各々の時間を過ごすのだ。能登は本来はあまり雪深いところではない。輪島の街中は海が近いこともあって、さほど深い積雪はない。一歩山の中にある龍昌寺はそれとは別世界の感がある。冬には一メートル前後の雪が降るだ。一月も終わるころには雪がシャーといった音と共に積もり始める。全ての音が遮断され、人の行き来も途絶える。厨の広間で薪ストーブを炊きながら、夜な夜な三人で語っている。背後から迫る冷気と正面から伝わるストーブの暖かさの狭間に陣取り、何を一冬話していたのだうか。つい宵っ張りになって誰も朝を起きることができないので、夜の9時から座禅をしようということになった。夕食を終え一息ついてから、三人で本堂に向かい、座ることにした。始めは違和感があったのだが、だんだんと一日のリズムの中に坐禅が入り込み、本堂に向かう足取りに気が入りはじめていった。あんなに本を読んで勉強したいと思い、大量の本を持ち込み意気込みがあったのに、何を読んでいたかも覚えていない。ただ茫漠とつかみどころのない自分をそのままやれる場があったことがありがたかったのだ。その当時の龍昌寺にある食料は米と白菜と大根それだけだった。あの三か月間は毎日それをいろんな方法で食べていた。玄米のおかゆと白菜、玄米のご飯と大根。別に飽きることもなかったし、特別に買い物にも出かけなかった。なにか不思議な時間だった。その頃小林が断食にはまっていた。三週間ぐらいの断食をしてランニングをしたりしていた。僕も三日間の断食をためした。お蔭で今よりも12キロも軽い58キロまで痩せた。高校生の頃の体重だから、身体が軽く感じ気分は爽快になった。